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ABOUT ART WORKS

以前「さよなら私」というタイトルの本を見て、迷わず買った事があります。みうらじゅんさんの文庫本で、ジャケ買いならぬ、タイトル買いです。世の無常を仏教思想の視点から面白おかしく語っている本でした。そして1番最初のエピソード『空あり』の話でその本のコンセプトを理解したように思います。『くう(空)がある』とはどういうことか?私が『さよなら私』というタイトルに惹かれた理由がそこにあったのかもしれません。

私の制作も 「空があること』 あるいは『無があること』禅問答の様な事象を見つめることから始まっています。全ては朽ちてなくなる無常であるからこそ美しいという その儚さへの憧れや執着を、もののあはれを写し取ることで、作品にしたいと考えてする制作は 私とさよならこと、煩悩を消すというものであり 自然界が決めた事に従う事 そして、それを選ぶことはより空気のように宇宙にとけ込んで行くような感覚を作品に投影する事です。

 

しかし、そんな理想を込めて物を動かし作るのはやはりその物性感から逃れられない悲しさを同時に感じずにはいられないものです。唯心だけでは成り立たないのがおそらく私の作品だと気付かされます。実存するのはその量魂(キャンバスやアクリルや鉄板)だ、でもそれだけで無くそれを取り巻く光や影、浮び出る通約不可能な形も含め無形を実存させる事を見たい それが私が求める形でありたいと。もしそれを感受出来たなら初めて 無私(さよなら私)に少し近付けるかもしれません。

 

2019 4月 更新

*下線付いた言葉は岡崎乾二郎氏の著書 『抽象の力』亜紀書房 からの言葉をお借りしました。以下著書からの重要な部分参照 P. 111--112  

芸術表現の拠点は『アンフォルム』の美学だけだったと言えよう。すでに語って来たように、これは『具体』と言う概念にともなう1つの側面でもあったが、アンフォルムの美学は徹底して、その物質としての通約不可能性をこそ強調した。それは理解不能、接続不能すなわち通約不可能な全く別の回路でありながら、にもかかわらず、そこに確かにそれが存在する事を主張する。いいかえれば物質として現れるのは、その背後(内部)に確実に別の思考があり、感覚作用があるに違いないとしても、まったく理解不可能であるという事実である。その不可知な対象は物質=量魂としてそこに否定しがたく実存する。こうした共感出来ない領域表現は、日本の新感覚派の作家たちとほぼ同じ世代であるジャン  フォートリエやルーチョフォンタナの1940年にその  が見られた。フォートリエの表現には『可視化された対象の周囲の非視覚的空間、影や空虚を充実した実体として捉え触覚性を与える』という特徴があった。(中略)

 一方で『アブストラクシオン・クレアシオン』にも参加していたルーチョフォンタナの1940年からの仕事は、とらえどころの無い流産したような形態から、やがて画布や量魂を実際に切り裂いて生まれる虚の空間が異様な充実感をもって現前するという表現に移行ていく。実質的な対象の手がかりが欠如しているにも関わらず、その欠如=空虚を充満する何ものかが確実性をもって感じられるという逆説は、そこに決して到達出来ない自立した回路がーいわば他者としてー確実に存在することが感受されるからだろう。

 

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